【超大作映画】『目くそ鼻くそを笑う』
本日もご訪問ありがとうございますm(__)m
↑こんな記事を書いておきながらブログ2ヶ月半放置しました、ミツムジです
「これからは頑張ってブログ更新増やします」とか高らかに宣言しときながらこの体たらく、まったくあきれちゃいますね(^_-)-☆
そんなわけで、なんかもういつも通り気まぐれな更新なのでございますが、今回は夢のはなしです
・・・では早速、、、
どうぞ!!!!!
目くそ×鼻くそ
唐突ですが、私はこないだ「目くそ鼻くそを笑う」というタイトルの映画に出演する夢を見ました
どうしてそんなふざけた夢を見てしまったのか、、、
それはわかりません
とにかく私はその映画の中でとても重要な役を演じなければならなかったのです・・・
何かと申しますと、目くそがなぜ鼻くそを笑ってはいけないのかについて真剣に説教する王族の役でした
それが一体どんなシチュエーションであるのか皆目見当もつかないのですが、五千人もの観衆の前で私は目クソうんぬんの説教を垂れなければならなかったのです
・・・それは誠に苦悶と緊張に満ちた波乱の時間でありました
何しろ私が喋っている間、観衆は終始真顔で微動だにしないのです
みんなこんな感じ↓
例えば、
「目くそには目くその、鼻くそには鼻くその輝ける場所があるんだよ・・・!」
こんな誰が聞いても明らかにおかしいセリフを高らかに天に向かって叫んでも、観衆役の何千人ものエクストラはみんながみんな、それをあたかも至言であるかのようにしれっと当たり前に受け入れるのです
そういう役だから仕方ないと言ってしまえばそれまでなのですが、私一人が自分の放つ言葉に疑問を持っていて、笑う事など許されない空気の中に身を置くその状況には、正直たまらないものがありました
(手前=観客。書くのめんどくさいので簡略化しました)
聴衆の皆々さまは、絶対内心ではほくそ笑んで馬鹿にしてるはずなのに、それこそ真に迫った演技力でもって私の話に真剣に耳を傾けているのです
ですから喋る態度はさながら釈迦で、その実セリフはクソだらけ
そんなきわどい役どころでも、私は真面目に演じなければならなかったのでした
周囲を埋め尽くす観衆たちの好奇に満ちた眼差しを一心に受けながら、
「…この映画はなんだ。一体なんだ、この映画は。」
と煩悶することこの上なく、とにかく憤懣やるかたなしといった風情でした
だいたい映画のタイトルに「目くそ鼻くそ」とはどういうセンスなのか・・・、
脚本家の感性を疑って私は甚だ遺憾でした
遺憾であるのに目くそ鼻くそだのと立て板に水でつらつらと喋りつづける自分の根性がなんだか情けなくもありました
とはいえ、そんなこんなでなんだかんだ三十分以上講釈を垂れたのです
ですがまだまだ休むことなどできません
なぜなら全編二時間半の映画の中で、私の演説シーンはノーカットで二時間以上もあるからです
いったいどんな構成の映画なのか、目くそ鼻くそについて一人の男が延々としゃべり続ける映画など誰が見るものかとまたもや不満たらたらでした
といって、これまで私はこの目クソっぽい映画をそれこそボロクソに批判してきましたが、本当を言えばこんなに奇天烈な映画にも見る者に訴えかける大切なメッセージというものは込められているのでした
それはどんなものかと言うと、
「みんな違ってみんないいよね☆」
そんなどこかで聞いた文句とちょうどおんなじです
要するに人間の多様性、その全部を肯定する意義を伝える映画が「目くそ鼻くそを笑う」なのでした
「各々境遇は違えども、みんなそれぞれ適材適所、己が本分発揮して、生活したらば、個の違いすら乗り越えて、世界はきっとバランスするぞ」
実はそんな雄大なメッセージを目クソ鼻クソやらの汚い例えで伝えようとしたのがこの映画なのです
ですから、
「目くそには目くその鼻くそには鼻くその輝ける場所があるんだよ」
先のクソみたいな名ゼリフはそのことを一言で言い表す、実は本当の至言だったのでした
それだからして、これまでこの映画をくそみそにけなしてきた私が一転翻ってこのようなことを言うのは大変不自然なのですが、この目くそなんたらとかいう映画は見ようによってはなかなか素敵な作品だったりもするのです
ただ喉の水分が枯渇するほど膨大な台詞をひたすら言わされて、精神力が摩耗していた私だからこそ、やるせない怒りをぶつけるつもりでここぞとばかり非難していただけなのです
私は夢の中とは言えこんな映画に出演してしまったことを良くも悪くも一生涯忘れないだろうと思った次第でした・・・
THE END
最後に、お詫び
そんなわけで、目クソ鼻クソとのコラボレーション、どうだったでしょうか?
実を言うとこのファンシーな夢を見たのは私の友人だったりするのですが、あんまり面白い話だったので主語自分にして小説風に仕上げちゃいました・・・
(※本人の許可は取ってます)
なので、なんかいかにも「私」=ミツムジが見た夢みたいになってますが、そうじゃありませんごめんなさい。。。
どうかちょこざいな私を許してください……
そんなわけで、世にもシュールな夢の話を快く話してくれた友人に感謝しながら、この文を終えたいと思います!!
最後までお読み下さり、ありがとうございました!!!!!
『ああ無精(ぶしょう)』~ブログ2ヶ月放置の巻~
こんにちは、ミツムジです
本日もご訪問ありがとうございますm(__)m
それにしても、、、
ああ、暑い・・・
すごく暑い
お盆を境に少しは涼しくなってきたけど、それでもまだまだすごく暑い
最早見慣れた光景になってしまったのですが、セミがこの暑さでまた死んでました
「めっちゃ暑い、もう無理・・・」
って感じで道端でひっくり返っていましたよ
ご冥福をお祈りします
・・・で、
この暑さで干からびるのはまっぴらごめんなので、ミツムジはスポーツ飲料をがぶ飲みしてます
皆さまも水分をまめに補給して、熱中症にはくれぐれもお気をつけください
ところで、、、
ブログの更新が滞っておりました、
申し訳ありません・・・。
私生活が忙しく、ほぼ2ヶ月の間、放置状態でした
私のブログ、まだ20記事と記事数が少ないのですが、それでも見に来て下さる方がいらっしゃるようで、時にはスターを投げて励ましてくださる方もおり、感謝の気持ちでいっぱいです
袖触れ合うも多生の縁とは申しますが、ネットの繋がりも同じく大切なご縁に違いないので、一つ一つの出会いを大事にしながら、ブログの更新を続けていきたいと思っています
温かい目で見守っていただければ嬉しいです
これからもミツムジブログをよろしくお願いしますm(__)m
(・・・これからはブログの更新増やせるように頑張ります)
「ピッグ 丘の上のダム・キーパー」が可愛すぎてキュン死
こんにちは~、頭の中が「ピッグ」でいっぱいなミツムジです
「ピッグ」ってなんや?という方、まずはこのきゃわゆい映像(40秒ぐらい)をご覧ください↓
ぬわわ~~~~~っ!!!!!かわいすぎる!!!!!!!O(≧∇≦)O
かわいい!!
かわいい!!
(出典:ピッグ 丘の上のダム・キーパー みずあそび が見放題! | Hulu(フールー) 【お試し無料】)
超かわいい!!
・・・ハァ、ハァ(_´Д`)
テンションが上がりすぎましたごめんなさい・・・
これは今日ご紹介する『ピッグ 丘の上のダム・キーパー』のオープニング映像なのですが、かわいらしいアニメもさることながら、音楽も素晴らしいですよね
ピアノの演奏が耳心地良いですし、途中から入るフルートの音色も、胸に響きます
「ピッグ」はもちろん、主人公のこのブタちゃんのことです↓
お友達のフォックス↓
(出典:元ピクサーの監督による「ダム・キーパー」展覧会開催、限定グッズの販売も - 映画ナタリー)
ヒッポ↓
キツネ=フォックス(FOX)
カバ=ヒポポタマス(HIPPOPOTAMUS)
ですから、キャラクターの名前はその動物の英語名から取ってるんですね
この「ピッグ 丘の上のダム・キーパー」一体なんなのかというと、2015年に米国のアカデミー賞短編アニメーション部門にノミネートされて話題を集めた「ダム・キーパー」を元に制作されたシリーズなんです
「ダム・キーパー」
「ダム・キーパー」予告編↓
「ダム・キーパー」は18分ほどのたいへん短いアニメ映画なのですが、その中に濃い設定とバックグラウンドがギュギュっと詰め込まれています・・・いっそ心苦しくなるくらい、、、
かわいらしい絵柄とは裏腹に、扱っているテーマはかなり重め
まず主人公の「ピッグ」くんは町のみんなを汚れた黒い雲から守る「ダム・キーパー」の役目を担っています
毎日決まった時間に風車を回して、風の力で雲を吹き飛ばします
黒雲は植物を枯らすほどの害を持っていますから、町に入りこませる訳にはいかないんです
ところが、町のみんなは自分たちの恩人である「ピッグ」に感謝するどころか、
汚れ役として忌み嫌います
風車の整備ですすまみれの「ピッグ」は、
町の人に蔑まれながら、同級生にからかられながら、それでも自分の使命である「ダム・キーパー」の役割に徹するんです
けなげで涙が出てきます(;-; )
・・・ところが、そんな辛い毎日を送っていたピッグのもとに、ある日転校生のフォックスがやってきて・・・?
ーーこの後の展開は、ぜひ本編でご覧ください
今だとhuluで見れますよ♪
31日間の無料お試しもあるみたいなので、活用してみてください
この「ダム・キーパー」は2014年にベルリン国際映画祭で公式上映されて以来、世界各地の映画祭で20以上もの賞を受賞している作品です
日本語吹き替え版は柄本明(えもとあきら)さんがナレーションを担当されてます
「ピッグ 丘の上のダム・キーパー」
・・・で、新たにシリーズ化された「ピッグ 丘の上のダム・キーパー」は、傑作と謳われた「ダム・キーパー」の世界観を引き継いでいて、やはり黒い霧を風車の力で吹き飛ばす役割を負っている「ピッグ」くんが主人公
正直いって、「ダム・キーパー」のときの陰鬱な雰囲気は無いです
登場人物は言葉をしゃべらないのですが、無邪気な笑い声とか、首をかしげたり考え込むときの「ん~?」っていうあどけない感じのかわいらしい声とかがところどころに入ってくるので、寂しい感じはありません
無邪気な声が絵本風の優しげなアニメーションとマッチして、明るく楽しい雰囲気です
一話がちょうど5分間の短編アニメで、全部で10話あります
あらすじ
以下、公式ホームページから抜粋したあらすじです↓
ピッグは、黒い雲が押し寄せてくる丘の上に住んでいる。ピッグのお父さんは、黒い雲の真相を探るためにその中に消えてしまう前に、息子と町を守るための小さな木製のダムを築く。そして、町に忍び寄る雲を押し返すダムを回し続ける責務を、幼少のピッグが担うことになる。まだ小さくて一人ぼっちのピッグは、フォックスとの友情から、家族のような愛情を発見し、町の人々への思いやりを絶やさない。同時に、父親がいなくなってしまった欠落感をいつも感じていて、父親を探したいという欲求と町を守らなければいけないという責務との板挟みに、葛藤を抱えて育っていく。
あらすじを見るとシリアスに思えますが、各話の途中途中で多種多様な動物たちがわんさか出てきて、それぞれの個性で物語を盛り立ててくれますから、和気あいあいとして賑やかな感じです
この「ピッグ - 丘の上のダム・キーパー」は、Huluオリジナル作品として国内配信されたもの
一時期NHKアニメワールドでも放送されていたようですが、再放送はまだ未定みたいです
なので、7月18日にはDVDとブルーレイが発売するそうですが、それまではHuluで楽しんじゃいましょう!!って感じですね
トンコハウス
この「ピッグ 丘の上のダム・キーパー」は、「ダム・キーパー」と同様、トンコハウスが制作したものです
トンコハウスは、ピクサーのアートディレクターだったロバート・コンドウさんと堤大介さんが、ピクサーを退社した後に設立したスタジオ
ロバート・コンドウさん
堤大介さん
ピクサーといえば、『トイ・ストーリー』シリーズ、『ファインディング・ニモ』で有名ですね
ロバート・コンドウさんと堤大介さんのお二人も、『トイ・ストーリー3』や『モンスターズ・ユニバーシティ』などの制作に携わっておられたようです
・・・で、これからの躍進にますます期待大のトンコハウスですが、この「ピッグ 丘の上のダム・キーパー」が、つい先日『アヌシー国際アニメーション映画祭2018』テレビ部門でグランプリの「クリスタル賞」を受賞しました
(参照:「ピッグ 丘の上のダム・キーパー」アヌシー国際アニメ映画祭テレビ部門のクリスタル賞に輝く : ニュース - アニメハック)
今、この記事を読んでおられる方、この機会に是非、トンコハウス珠玉の名作
ほっこり笑えてじんわり泣ける「ピッグ 丘の上のダム・キーパー」をご覧になってみてはいかがでしょうか?
私はシリーズ通して見たのですが、10話目で涙がほろり(:_;)
家族愛、友情、ゆたかな人間愛に目頭が熱くなりました
本日も最後までお読みいただき、ありがとうございました!!
夏目漱石「こころ」に見える権力のハナシ(3)
この記事の続きです↓
前回まで、夏目漱石が生きた時代にあった権力論を、ポンポンポンと紹介して参りました
・・・で、ラズウェル、マックス・ウェーバーと紹介してきて、その難解さにミツムジの脳がオーバーヒートしたため、前回は本題に辿り着く前にバタンキュー_(」∠ 、ン、)_
漱石の権力観のお話が本記事まで持ち越しになったのでした
というわけで、伸ばし伸ばしにやってきた今回のテーマもいよいよ最後!
これから漱石「こころ」に見える権力観についてお話していきます♪
(※今回の記事は「こころ」を読んでないと内容的にわかりづらいかもしれませんが、どうかご容赦ください)
「先生」のセリフ
では早速、「こころ」の中身から見ていきましょう
まずは「こころ」に出てくる「先生」の人柄についてです
主人公「私」が、鎌倉で先生と出会ってから、度々先生と交流をするようになって、その人柄に触れていくのですが、「私」から見た「先生」について語ってる文章で、こんなのがあります
先生はまるで世間に名前を知られていない人であった。だから先生の学問や思想については、先生と密切の関係をもっている私より外に敬意を払うもののあるべきはずがなかった。それを私は常に惜しい事だといった。先生はまた「私のようなものが世の中へ出て、口を利いては済まない」と答えるぎりで、取り合わなかった。私にはその答えが謙遜過ぎてかえって世間を冷評するようにも聞こえた。実際先生は時々昔の同級生で今著名になっている誰彼を捉えて、ひどく無遠慮な批評を加える事があった。それで私は露骨にその矛盾を挙げて云々してみた。私の精神は反抗の意味というよりも、世間が先生を知らないで平気でいるのが残念だったからである。その時先生は沈んだ調子で、「どうしても私は世間に向かって働き掛ける資格のない男だから仕方がありません」といった。先生の顔には深い一種の表情がありありと刻まれた。
(引用元:夏目漱石『こころ』岩波文庫)
「先生」、なんでこんな厭世的な態度を取ってるんでしょうか?
てがかりになるような言葉が、このあとに出てきます
「私」が「先生」の思想や人柄に大きな期待を寄せるようになってきたのを見て取った「先生」が、
とにかくあまり私を信用してはいけませんよ。今に後悔するから。そうして自分が欺かれた返報に、残酷な復讐をするようになるものだから
(夏目漱石『こころ』岩波文庫)
といって「私」をたしなめたあとに、
かつてはその人の膝の前に跪いたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載せさせようとするのです。私は未来の侮辱を受けないために、今の尊敬を斥けたいと思うのです。私は今より一層淋しい未来の私を我慢する代りに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と独立と己れとに充ちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう
(夏目漱石『こころ』岩波文庫)
こんなことを言うんです
う~ん、「先生」は過去に人間関係で手痛い目にあって、同じような因縁を避けたいから世間を離れてるんですね・・・
読んでて切なくなる場面です
ところで、前回ラズウェルの権力論をご紹介しました
これですね↓
誰かから裏切られたり、信用を失ったりして自尊心が傷つくようなことがあった場合、その心の傷をカバーするために、権力を追求する「政治的人間」になってしまうというのがラズウェルの考え方でした
この「政治的人間」が、社会のなかで奪いあう対象になっている「価値」(権力、尊敬、道徳、愛情、健康、富、技能、知能の8つ)を持った時に、人にこれを与えたり、逆に奪ったりしながら、また価値を追い求めます
それでもって、政治的人間の他の人に対するコントロールの現象を勢力と呼ぶことができて、そのコントロールのなかで重大な価値を奪うものが権力なんだと、ラズウェルは言ってます
・・・で、なんで今この話をしたかというと、さっきの「先生」のセリフが、このラズウェルの権力論に関係してるんじゃないかって思ったからなんです
価値の奪い合い~こころ~
「こころ」では、後半から「先生」の学生時代の回想場面に入りますよね
「私」が「先生」から届いた手紙を読むことで、「先生」の過去の秘密が明らかにされます
学生時代、「先生」は当時の下宿先にいたお嬢さんに恋をするのですが、幼馴染「K」を同じ下宿先に呼ぶ前は、その恋愛に必死ーーというわけではありませんでした
ですが予想外のことに、ぶっきらぼうなKがお嬢さんと少しづつ打ち解け合って、しまいにはお嬢さんに恋をしてしまいます
Kからその事実を告げられると、「先生」はKに対して脅威を感じてしまうんです・・・
Kからお嬢さんへの恋心について打ち明けられた時に、学生時代の「先生」が、
「相手は自分より強いのだという恐怖の念が萌し始めた」
と告白してるのですが、多分ここで語られている出来事が、前半部分で「先生」が言っていた
かつてはその人の膝の前に跪いたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載せさせようとするのです。私は未来の侮辱を受けないために、今の尊敬を斥けたいと思うのです。私は今より一層淋しい未来の私を我慢する代りに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と独立と己れとに充ちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう
(夏目漱石『こころ』岩波文庫)
このセリフの中の「かつてはその人の膝の前に跪いたという記憶」なんだと思うんです
それでこのときに先生が受けた苦痛が、心の傷になって学生時代の「先生」の中に残っっちゃって、そのために「先生」が「政治的人間」になってしまったんじゃないかって考えたんですが、ちょっと大げさですかね(?_?)
それでもって、お嬢さんからの「愛情」という価値、ラズウェルが言うところの8つの基底価値の一つを「先生」は必死に追求するようになった、なんていう風にいうこともできるのかなあ、とか思ったりしました
「先生」は結局、奥さんに直談判して、Kを出し抜く形で、お嬢さんの愛を手に入れるわけなのですが、この愛情の価値の奪い合いの流れが、ラズウェルの権力論に当てはめて見た漱石の「こころ」なんだと思います
「先生」が「私」に、
「かつてはその人の膝の前に跪いたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載せさせようとするのです。」
といったのは、「先生」とおじさんとの間にあった因縁のこともそうかもしれませんが、Kと「先生」との間にあった経験が特にあったからこそ、こういうふうに言ったんじゃないでしょうか??
「私の個人主義」
続けて、漱石の「こころ」以外で、漱石の権力観がどんなだったのか想像する手掛かりになりそうなのが「私の個人主義」という文章の中にあったので、ちょっと引用します
「私の個人主義」という作品は、漱石が大正3年1914年に、学習院で学生たちに向かってした講演の内容を文章にしたものです
学習院という学校は社会的地位の好い人が這入る学校のように世間から見傚されております。そうしてそれがおそらく事実なのでしょう。もし私の推察通り大した貧民はここへ来ないで、むしろ上流社会の子弟ばかりが集まっているとすれば、向後(きょうこう)あなたがたに附随してくるもののうちで第一番に挙げなければならないのは権力であります。換言すると、あなた方が世間へ出れば、貧民が世の中に立った時よりも余計権力が使えるという事なのです。前申した、仕事をして何かに掘りあてるまで進んで行くという事は、つまりあなた方の幸福のため安心のためには相違ありませんが、なぜそれが幸福と安心とをもたらすかというと、あなた方のもって生れた個性がそこにぶつかって始めて腰がすわるからでしょう。そうしてそこに尻を落ちつけてだんだん前の方へ進んで行くとその個性がますます発展して行くからでしょう。ああここにおれの安住の地位があったと、あなた方の仕事とあなたがたの個性が、しっくり合った時に、始めて云い得るのでしょう。
これと同じような意味で、今申し上げた権力というものを吟味してみると、権力とは先刻お話した自分の個性を他人の頭の上に無理矢理に圧しつける道具なのです。道具だと断然云い切ってわるければ、そんな道具に使い得る利器なのです。(夏目漱石『私の個人主義』青空文庫)
漱石の権力に対する価値観は、「こころ」の中にもよく表れてます
「私」の父が危篤状態になりつつあった時、九州から故郷の家へ実の兄が呼び寄せられるのですが、この「兄」と「私」の会話の中で、ふと「先生」の話が持ち上がります
この場面です↓
先生先生と私が尊敬する以上、その人は必ず著名の士でなくてはならないように兄は考えていた。少なくとも大学の教授ぐらいだろうと推察していた。名もない人、何もしていない人、それがどこに価値をもっているだろう。兄の腹はこの点において、父と全く同じものであった。けれども父が何もできないから遊んでいるのだと速断するのに引きかえて、兄は何かやれる能力があるのに、ぶらぶらしているのは詰らん人間に限るといった風の口吻を洩らした。
「イゴイストはいけないね。何もしないで生きていようというのは横着な了簡だからね。人は自分のもっている才能をできるだけ働かせなくっちゃ嘘だ」
私は兄に向かって、自分の使っているイゴイストという言葉の意味がよく解るかと聞き返してやりたかった。」(夏目漱石『こころ』岩波文庫)
主人公の兄は、社会の中で自分を押しだしていって、自分の個性であるとか才能を発揮して、何かを生産してくべきだと言ってますが、「私」はそんな兄の態度に反発してますね
主人公に「兄」の態度を批判させているのは、漱石自身が権力の持ちうる支配に懸念があったからだって思います
その証拠に、「兄」と「私」はそれぞれ自分の解釈でもって、イゴイストっていう言葉を使ってますが、漱石は自分中心に考える人について、「私の個人主義」の中でこんな風に言っています
近頃自我とか自覚とか唱えていくら自分の勝手な真似をしても構わないという符徴に使うようですが、その中にははなはだ怪しいのがたくさんあります。彼らは自分の自我をあくまで尊重するような事を云いながら、他人の自我に至っては毫も認めていないのです。いやしくも公平の眼を具し正義の観念をもつ以上は、自分の幸福のために自分の個性を発展して行くと同時に、その自由を他にも与えなければすまん事だと私は信じて疑わないのです。我々は他が自己の幸福のために、己れの個性を勝手に発展するのを、相当の理由なくして妨害してはならないのであります。私はなぜここに妨害という字を使うかというと、あなたがたは正しく妨害し得る地位に将来立つ人が多いからです。あなたがたのうちには権力を用い得る人があり、また金力を用い得る人がたくさんあるからです。
(夏目漱石『私の個人主義』青空文庫)
漱石は、「自分が自分が」といって自分をどんどん前に押し出していく姿勢について、その姿勢がほかの人の自由を奪うんじゃないか、個性を発揮するにしても、もっと周りをよく見渡して、ほかの人の個性も、きちんと尊重しなきゃいけないんじゃないかと言っています
漱石が生きた明治時代は、ちょうど文明開化の時期でした
西洋から啓蒙思想が入ってきたことで江戸時代のような士農工商の身分が見直され、それこそ福沢諭吉『学問のすすめ』の中にあるアメリカ合衆国の独立宣言からの引用文「天は人の上に人を造らず 人の下に人を造らず」が象徴する平等を求める時代となっており、自由民権運動もさかんでした
こういう時代の空気は、人の自由を奪うべきじゃないっていう漱石の権力観にも反映されてると思います
最後に
・・・なんか結構引っ張って来たわりには、そんなに大した考察でもなかったかもしれませんが、学者さんたちの権力論の紹介はできたかと思うのでどうか許してくださいませ( ̄∇ ̄)
なんにしても、漱石が言ってることは、現代に生きてる私たちにも深く関わりがあることなんじゃないかなあと思います
最後に漱石の言葉を引用して今回の記事のまとめにしますね
第一に自己の個性の発展を仕遂げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならないという事。第二に自己の所有している権力を使用しようと思うならば、それに附随している義務というものを心得なければならないという事。第三に自己の金力を示そうと願うなら、それに伴う責任を重じなければならないという事。つまりこの三カ条に帰着するのであります。
これをほかの言葉で言い直すと、いやしくも倫理的に、ある程度の修養を積んだ人でなければ、個性を発展する価値もなし、権力を使う価値もなし、また金力を使う価値もないという事になるのです。それをもう一遍云い換えると、この三者を自由に享け楽しむためには、その三つのものの背後にあるべき人格の支配を受ける必要が起って来るというのです。もし人格のないものがむやみに個性を発展しようとすると、他を妨害する、権力を用いようとすると、濫用に流れる、金力を使おうとすれば、社会の腐敗をもたらす。ずいぶん危険な現象を呈するに至るのです。そうしてこの三つのものは、あなたがたが将来において最も接近しやすいものであるから、あなたがたはどうしても人格のある立派な人間になっておかなくてはいけないだろうと思います。(夏目漱石『私の個人主義』青空文庫)
「自己の個性の発展を仕遂げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならない」
これってホントに大事なことですよね
私自身、自分の個性を社会の中で発揮したい、仕事をする上では自分の能力を活かして働いていきたいと願ってますが、もしその願望をかなえるのにしても、とにかくよく周りを見渡して、人も自分も個性を発揮できるような、そういう環境を目指さなきゃいけないなあと感じます
そんなわけで、三回に渡って書いてきましたが、『漱石「こころ」に見える権力のハナシ』はこれでおしまいです
最後までお付き合いいただいて、どうもありがとうございました_(⌒▽⌒)ノ彡☆
夏目漱石「こころ」に見える権力のハナシ(2)
この記事の続きです↑
夏目漱石の「こころ」に現れている権力観を語るために、歴史上でこれまで語られてきた有名な権力論をポンポン紹介してきたのでした
前回ラズウェルの権力論までお話ししたので、次は「権力の関係概念」です
今回も、こちらのサイト様が詳しい解説をして下さっているので、適宜引用させて頂きたいと思います↓
権力論について
権力の関係概念
「権力の実体概念」は、権力の源がある、何らかの力を持ってるからその人には権力があるって考えるやつでした
これに対して、権力の源があるんじゃなくて、権力は人間関係で決まるんだって言った人がいます
ロバート・アラン・ダールっていうアメリカの政治学者です
(参照:政治を考える。 - 園芸研究家日記)
この人が唱えた「権力の関係概念」の解説を、ちょっと引用させて頂きます
医師→教師、教師→生徒の間に権力関係があっても、医師→生徒の間には権力関係がない。そのような人間関係にないからだ。
権力関係が生まれるには、上下関係みたいなパワーの差が必要だよっていうことですかね??
ダールは
「他からの働きかけがなければ、Bがしないであろうことを、AがBに行わせることができたとき、AはBにたいして権力を持つ」
っていうふうに説明してます
こういうパワーバランスって、社会の中にたくさんありますよね
それぞれの人がそれぞれの適材適所で役割に徹する中で、誰かが誰かに命令することって多いと思います
それでもってその命令に従わざるを得なかったり、、、
暗黙の了解で成り立ってる上下関係ってたくさんあると思うんですよね
そんな風にたくさんの権力が多元的に存在しているのが今の社会で、これを「権力の多元主義」っていうそうです
っていっても、なんかやっぱり難しいですね・・・
とりあえず図にするとこんな感じになるらしいです↓
(図の参照元:加藤秀治郎『政治学の基礎』一藝社 p11)
右の「実体概念」の方は、権力者が他の人たちを服従させる形で、服従者に対して一方的に強制力が行使されてます
一方で関係概念の方は、両者の間に一方通行の関係があるんじゃなくて、権力行使が相手の出方によって変わります
権力者・服従者の双方が心のなかで相手をどう評価するかによって、権力関係そのものが変わってしまう
教師が生徒に指導するとき、生徒は教師の指示に合意したうえで、それに従いますよね
そんなふうに相互作用があるのが、関係概念なんだそうです
マックス・ウェーバーの権力論
この図を最初にご紹介しました
(図の参照元:公務員試験・政治学基礎講座2013の講義案(メモ) その1 権力 - NAVER まとめ)
支配関係を「正当化」する「正当性」があって、これが強固だと権力は安定するっていうお話でしたよね
この支配を正当化するものについて、ドイツの社会学者マックス・ウェーバーがなんかすごい考察をしています
ちょっと今からご紹介しますね
ウェーバーは支配の正当性に3つの型を示しました
カリスマ的支配、伝統的支配、合法的支配の3つです
それぞれについて
カリスマ的支配が→人の超人性に
伝統的支配が→人の人性に
合法的支配が→人の没人性に由来するとウェーバーは言ってます
って言われても、「はい・・・?(。・д・。)」って感じですよね
とりあえず図にしてみました↓
一つずつ説明していきま~す
カリスマ的支配
これは誰かが人より身体が大きかったり、粗暴だったり、人よりも容姿が優れてたり、人よりも頭が良かったりして他の人を超えてしまうと、その人の支配がカリスマ的な超人の支配として正当化されちゃうってやつです
ジャイアニズムが典型ですよね
超人的な力が根源にあるので、超人性に由来してるってことになります
ちょっと話が反れますが、個人的には栄枯盛衰、禍福は糾える縄の如しを信じてるので、強い人がずっと得をするわけでもないんだろなあって思ってます
今までいろんな人に出会って、いろんな人生に触れてきましたけれど、やっぱり最後は、周りを大事にできる人が一番強いんだって確信してます
( ˘⊖˘) .。oO(・・・そういうものにわたしはなりたい)
ミツムジ
伝統的支配
これはどんなものかというと、例えば家父長制度↓
かふちょうせい【家父長制】
家長(父とは限らない)が家族に対して絶大な権力をもつ家族制
(引用元:「世界史辞典 三訂版」旺文社)
こういうふうに誰かが家族の上に立ったりとか、皇帝が民衆を支配したりとかが典型です
しきたりとか習わしとかの伝統的な慣習もそうですし、長いあいだ継続されてきたものを根拠にして正当化される支配のことらしいですよー
人の人ゆえの力が支配を可能にするので、人性に由来するって感じみたいです
合法的支配
これは行政とか官僚による支配のことで、法律を根拠にした支配のことです
自分ではない組織の決定として自らを消し去ることで支配が正当化されるので、没人性(人じゃないもの)に由来してるって感じになります
・・・んで?
ここまで、漱石が生きた時代にあった権力論をドバドバ紹介して参りました
前置きが異様に長くなりましたが、なんかドバンドバン挙げてきた権力論の中で、どれが漱石の権力観に一番近いのかなあって話でしたよね
でも、私は正直にいって、ここまでの流れを理解するのに脳みそがもうパンパンです
多分このままいったら破裂します
ですのでごめんなさい!!!!!
また次回、本題の「こころ」に見える権力について話していくのでよろしくお願いします(><)
本日も最後までお読み頂き、本当にありがとうございましたm(__)m
<引用元・参考文献と参考URL>
- 夏目漱石『こころ』(岩波文庫)
- 夏目漱石『私の個人主義』(青空文庫)
- 森元孝『理論社会学 社会構築のための媒体と論理』(東信堂)
- 加藤秀治郎『政治学の基礎』(一藝社)
- マックス・ウェーバー『職業としての政治』訳:西島芳二(角川文庫)
- 濱井修 監修、小寺聡 編『倫理用語集』(山川出版社)
- http://naver.jp/odai/2134058386510383701
- http://seesaawiki.jp/koumuinsiken/d/%B8%A2%CE%CF%A4%C8%B8%A2%B0%D2