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夏目漱石「こころ」に見える権力のハナシ(3)

 

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この記事の続きです↓

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前回まで、夏目漱石が生きた時代にあった権力論を、ポンポンポンと紹介して参りました

・・・で、ラズウェル、マックス・ウェーバーと紹介してきて、その難解さにミツムジの脳がオーバーヒートしたため、前回は本題に辿り着く前にバタンキュー_(」∠ 、ン、)_

 

漱石の権力観のお話が本記事まで持ち越しになったのでした

 

 

というわけで、伸ばし伸ばしにやってきた今回のテーマもいよいよ最後!

 これから漱石「こころ」に見える権力観についてお話していきます♪

 

(※今回の記事は「こころ」を読んでないと内容的にわかりづらいかもしれませんが、どうかご容赦ください)

 

 

 

 

「先生」のセリフ

では早速、「こころ」の中身から見ていきましょう

 

まずは「こころ」に出てくる「先生」の人柄についてです

主人公「私」が、鎌倉で先生と出会ってから、度々先生と交流をするようになって、その人柄に触れていくのですが、「私」から見た「先生」について語ってる文章で、こんなのがあります

 

先生はまるで世間に名前を知られていない人であった。だから先生の学問や思想については、先生と密切の関係をもっている私より外に敬意を払うもののあるべきはずがなかった。それを私は常に惜しい事だといった。先生はまた「私のようなものが世の中へ出て、口を利いては済まない」と答えるぎりで、取り合わなかった。私にはその答えが謙遜過ぎてかえって世間を冷評するようにも聞こえた。実際先生は時々昔の同級生で今著名になっている誰彼を捉えて、ひどく無遠慮な批評を加える事があった。それで私は露骨にその矛盾を挙げて云々してみた。私の精神は反抗の意味というよりも、世間が先生を知らないで平気でいるのが残念だったからである。その時先生は沈んだ調子で、「どうしても私は世間に向かって働き掛ける資格のない男だから仕方がありません」といった。先生の顔には深い一種の表情がありありと刻まれた。

(引用元:夏目漱石『こころ』岩波文庫)

 

 

「先生」、なんでこんな厭世的な態度を取ってるんでしょうか?

てがかりになるような言葉が、このあとに出てきます

 

 

「私」が「先生」の思想や人柄に大きな期待を寄せるようになってきたのを見て取った「先生」が、

 

とにかくあまり私を信用してはいけませんよ。今に後悔するから。そうして自分が欺かれた返報に、残酷な復讐をするようになるものだから

(夏目漱石『こころ』岩波文庫)

 

といって「私」をたしなめたあとに、

 

かつてはその人の膝の前に跪いたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載せさせようとするのです。私は未来の侮辱を受けないために、今の尊敬を斥けたいと思うのです。私は今より一層淋しい未来の私を我慢する代りに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と独立と己れとに充ちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう

(夏目漱石『こころ』岩波文庫)

 

こんなことを言うんです

 

う~ん、「先生」は過去に人間関係で手痛い目にあって、同じような因縁を避けたいから世間を離れてるんですね・・・

 

読んでて切なくなる場面です

 

 

 

ところで、前回ラズウェルの権力論をご紹介しました

 

これですね↓

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誰かから裏切られたり、信用を失ったりして自尊心が傷つくようなことがあった場合、その心の傷をカバーするために、権力を追求する「政治的人間」になってしまうというのがラズウェルの考え方でした

 

この「政治的人間」が、社会のなかで奪いあう対象になっている「価値」(権力、尊敬、道徳、愛情、健康、富、技能、知能の8つ)を持った時に、人にこれを与えたり、逆に奪ったりしながら、また価値を追い求めます

 

それでもって、政治的人間の他の人に対するコントロールの現象を勢力と呼ぶことができて、そのコントロールのなかで重大な価値を奪うものが権力なんだと、ラズウェルは言ってます

 

 

・・・で、なんで今この話をしたかというと、さっきの「先生」のセリフが、このラズウェルの権力論に関係してるんじゃないかって思ったからなんです

 

 

価値の奪い合い~こころ~

「こころ」では、後半から「先生」の学生時代の回想場面に入りますよね

 

「私」が「先生」から届いた手紙を読むことで、「先生」の過去の秘密が明らかにされます

 

学生時代、「先生」は当時の下宿先にいたお嬢さんに恋をするのですが、幼馴染「K」を同じ下宿先に呼ぶ前は、その恋愛に必死ーーというわけではありませんでした

 

ですが予想外のことに、ぶっきらぼうなKがお嬢さんと少しづつ打ち解け合って、しまいにはお嬢さんに恋をしてしまいます

 

Kからその事実を告げられると、「先生」はKに対して脅威を感じてしまうんです・・・

 

 

Kからお嬢さんへの恋心について打ち明けられた時に、学生時代の「先生」が、

 

「相手は自分より強いのだという恐怖の念が萌し始めた」

 

と告白してるのですが、多分ここで語られている出来事が、前半部分で「先生」が言っていた

 

かつてはその人の膝の前に跪いたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載せさせようとするのです。私は未来の侮辱を受けないために、今の尊敬を斥けたいと思うのです。私は今より一層淋しい未来の私を我慢する代りに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と独立と己れとに充ちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう

(夏目漱石『こころ』岩波文庫)

このセリフの中の「かつてはその人の膝の前に跪いたという記憶」なんだと思うんです

 

 

それでこのときに先生が受けた苦痛が、心の傷になって学生時代の「先生」の中に残っっちゃって、そのために「先生」が「政治的人間」になってしまったんじゃないかって考えたんですが、ちょっと大げさですかね(?_?)

 

それでもって、お嬢さんからの「愛情」という価値、ラズウェルが言うところの8つの基底価値の一つを「先生」は必死に追求するようになった、なんていう風にいうこともできるのかなあ、とか思ったりしました

 

「先生」は結局、奥さんに直談判して、Kを出し抜く形で、お嬢さんの愛を手に入れるわけなのですが、この愛情の価値の奪い合いの流れが、ラズウェルの権力論に当てはめて見た漱石の「こころ」なんだと思います

 

 

「先生」が「私」に、

「かつてはその人の膝の前に跪いたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載せさせようとするのです。」

といったのは、「先生」とおじさんとの間にあった因縁のこともそうかもしれませんが、Kと「先生」との間にあった経験が特にあったからこそ、こういうふうに言ったんじゃないでしょうか??

 

 

「私の個人主義」

続けて、漱石の「こころ」以外で、漱石の権力観がどんなだったのか想像する手掛かりになりそうなのが「私の個人主義」という文章の中にあったので、ちょっと引用します

 

「私の個人主義」という作品は、漱石が大正3年1914年に、学習院で学生たちに向かってした講演の内容を文章にしたものです

 

学習院という学校は社会的地位の好い人が這入る学校のように世間から見傚されております。そうしてそれがおそらく事実なのでしょう。もし私の推察通り大した貧民はここへ来ないで、むしろ上流社会の子弟ばかりが集まっているとすれば、向後(きょうこう)あなたがたに附随してくるもののうちで第一番に挙げなければならないのは権力であります。換言すると、あなた方が世間へ出れば、貧民が世の中に立った時よりも余計権力が使えるという事なのです。前申した、仕事をして何かに掘りあてるまで進んで行くという事は、つまりあなた方の幸福のため安心のためには相違ありませんが、なぜそれが幸福と安心とをもたらすかというと、あなた方のもって生れた個性がそこにぶつかって始めて腰がすわるからでしょう。そうしてそこに尻を落ちつけてだんだん前の方へ進んで行くとその個性がますます発展して行くからでしょう。ああここにおれの安住の地位があったと、あなた方の仕事とあなたがたの個性が、しっくり合った時に、始めて云い得るのでしょう。
 これと同じような意味で、今申し上げた権力というものを吟味してみると、権力とは先刻お話した自分の個性を他人の頭の上に無理矢理に圧しつける道具なのです。道具だと断然云い切ってわるければ、そんな道具に使い得る利器なのです。

(夏目漱石『私の個人主義』青空文庫)

 

 

漱石の権力に対する価値観は、「こころ」の中にもよく表れてます

「私」の父が危篤状態になりつつあった時、九州から故郷の家へ実の兄が呼び寄せられるのですが、この「兄」と「私」の会話の中で、ふと「先生」の話が持ち上がります

 

この場面です↓

先生先生と私が尊敬する以上、その人は必ず著名の士でなくてはならないように兄は考えていた。少なくとも大学の教授ぐらいだろうと推察していた。名もない人、何もしていない人、それがどこに価値をもっているだろう。兄の腹はこの点において、父と全く同じものであった。けれども父が何もできないから遊んでいるのだと速断するのに引きかえて、兄は何かやれる能力があるのに、ぶらぶらしているのは詰らん人間に限るといった風の口吻を洩らした。
「イゴイストはいけないね。何もしないで生きていようというのは横着な了簡だからね。人は自分のもっている才能をできるだけ働かせなくっちゃ嘘だ」
 私は兄に向かって、自分の使っているイゴイストという言葉の意味がよく解るかと聞き返してやりたかった。」

(夏目漱石『こころ』岩波文庫)

 

 

主人公の兄は、社会の中で自分を押しだしていって、自分の個性であるとか才能を発揮して、何かを生産してくべきだと言ってますが、「私」はそんな兄の態度に反発してますね

 

主人公に「兄」の態度を批判させているのは、漱石自身が権力の持ちうる支配に懸念があったからだって思います

 

その証拠に、「兄」と「私」はそれぞれ自分の解釈でもって、イゴイストっていう言葉を使ってますが、漱石は自分中心に考える人について、「私の個人主義」の中でこんな風に言っています

 

近頃自我とか自覚とか唱えていくら自分の勝手な真似をしても構わないという符徴に使うようですが、その中にははなはだ怪しいのがたくさんあります。彼らは自分の自我をあくまで尊重するような事を云いながら、他人の自我に至っては毫も認めていないのです。いやしくも公平の眼を具し正義の観念をもつ以上は、自分の幸福のために自分の個性を発展して行くと同時に、その自由を他にも与えなければすまん事だと私は信じて疑わないのです。我々は他が自己の幸福のために、己れの個性を勝手に発展するのを、相当の理由なくして妨害してはならないのであります。私はなぜここに妨害という字を使うかというと、あなたがたは正しく妨害し得る地位に将来立つ人が多いからです。あなたがたのうちには権力を用い得る人があり、また金力を用い得る人がたくさんあるからです。

(夏目漱石『私の個人主義』青空文庫)

 

漱石は、「自分が自分が」といって自分をどんどん前に押し出していく姿勢について、その姿勢がほかの人の自由を奪うんじゃないか、個性を発揮するにしても、もっと周りをよく見渡して、ほかの人の個性も、きちんと尊重しなきゃいけないんじゃないかと言っています

 

 

漱石が生きた明治時代は、ちょうど文明開化の時期でした

西洋から啓蒙思想が入ってきたことで江戸時代のような士農工商の身分が見直され、それこそ福沢諭吉『学問のすすめ』の中にあるアメリカ合衆国の独立宣言からの引用文「天は人の上に人を造らず 人の下に人を造らず」が象徴する平等を求める時代となっており、自由民権運動もさかんでした

こういう時代の空気は、人の自由を奪うべきじゃないっていう漱石の権力観にも反映されてると思います

 

 

最後に

・・・なんか結構引っ張って来たわりには、そんなに大した考察でもなかったかもしれませんが、学者さんたちの権力論の紹介はできたかと思うのでどうか許してくださいませ( ̄∇ ̄)

 

なんにしても、漱石が言ってることは、現代に生きてる私たちにも深く関わりがあることなんじゃないかなあと思います

 

 

最後に漱石の言葉を引用して今回の記事のまとめにしますね

 

 第一に自己の個性の発展を仕遂げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならないという事。第二に自己の所有している権力を使用しようと思うならば、それに附随している義務というものを心得なければならないという事。第三に自己の金力を示そうと願うなら、それに伴う責任を重じなければならないという事。つまりこの三カ条に帰着するのであります。
 これをほかの言葉で言い直すと、いやしくも倫理的に、ある程度の修養を積んだ人でなければ、個性を発展する価値もなし、権力を使う価値もなし、また金力を使う価値もないという事になるのです。それをもう一遍云い換えると、この三者を自由に享け楽しむためには、その三つのものの背後にあるべき人格の支配を受ける必要が起って来るというのです。もし人格のないものがむやみに個性を発展しようとすると、他を妨害する、権力を用いようとすると、濫用に流れる、金力を使おうとすれば、社会の腐敗をもたらす。ずいぶん危険な現象を呈するに至るのです。そうしてこの三つのものは、あなたがたが将来において最も接近しやすいものであるから、あなたがたはどうしても人格のある立派な人間になっておかなくてはいけないだろうと思います。

(夏目漱石『私の個人主義』青空文庫)

 

「自己の個性の発展を仕遂げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならない」

これってホントに大事なことですよね

 

私自身、自分の個性を社会の中で発揮したい、仕事をする上では自分の能力を活かして働いていきたいと願ってますが、もしその願望をかなえるのにしても、とにかくよく周りを見渡して、人も自分も個性を発揮できるような、そういう環境を目指さなきゃいけないなあと感じます

 

 

そんなわけで、三回に渡って書いてきましたが、『漱石「こころ」に見える権力のハナシ』はこれでおしまいです

 

最後までお付き合いいただいて、どうもありがとうございました_(⌒▽⌒)ノ彡☆