マインドフルネスで見通す「不思議なる宇宙」―国木田独歩『牛肉と馬鈴薯・酒中日記』
こちらの記事の続きです↑
「習慣の眼が作る処のまぼろし」が私達の眼を曇らせているとして、
その「まぼろし」を取り払ったときに見える
「宇宙」というものがあるならば、
それはどのようなものなのか?
というお話でした。
ここで「牛肉と馬鈴薯」から移って、
「空知川の岸辺」という作品を見てみたいと思います。
これまた作者自身をモデルにしたお話で、
主人公は北海道開拓時代、
理想を掲げて北海道への移住を試みる青年です。
北海道開拓とは・・・?
それまで未開拓だった北海道、
(先住民であるアイヌ人が住んでいたものの、
アイヌの人は狩猟生活を生業としていたため、
ほとんど原始林のまま)
そこに資源開発のため、多数の移住者が流れ込んで、
農耕地の拡大、道路、港湾、鉄道とかの整備をしちゃったんです。
豊かだった自然は開発の過程でどんどん破壊され、
アイヌの人はそれまでの生活を追われるどころか、
日本文化への同化まで強制されてしまいました。
北海道開拓の歴史については、こちらのサイト様が詳しいです。
主人公も、そんな時代の流れに触発され
自然の中での自給自足を夢に見て
北海道への入植を考える一人です。
そんな主人公が
入植地を探す途中、
北海道の歌志内へ行くために汽車に乗る場面があるのですが、
車内でぼんやり窓の外を眺めながら語られる境地、
これが独歩のいう「宇宙」にとっても近いんじゃないかと
ミツムジは思いました。
それはどんなものかというと、次のようなセリフです。
かかる時、人は往々無念無想の裡に入るものである。
利害の念もなければ越方行末の想もなく、
恩愛の情もなく憎悪の悩みもなく、
失望もなく希望もなく、
ただ空然として眼を開き耳を開いて居る。
(引用元:国木田独歩(2013)『牛肉と馬鈴薯・酒中日記』新潮文庫.)
最初この箇所を読んだとき、
ふっと「マインドフルネス」のことが思い浮かびました。
マインドフルネスー心をありのままに見つめる
「マインドフルネス」は、
第三世代の認知行動療法として
今注目されている心理療法の一つで、
辛いこと(感覚、感情、状況、症状など)があっても、
自分の心を観察し、受け入れて、
自分の願い(人生の価値)を実現するための
行動を選択できるような心の使い方を習得する、というものです。
(参考文献:大田健次郎『うつ・不安障害を治すマインドフルネス ひとりでできる「自己洞察瞑想療法」』佼成出版社. )
独歩の語る「宇宙」が、次のような境地の時に見えるものだとして、
「かかる時、人は往々無念無想の裡に入るものである。
利害の念もなければ越方行末の想もなく、
恩愛の情もなく憎悪の悩みもなく、
失望もなく希望もなく、
ただ空然として眼を開き耳を開いて居る。」
(引用元:国木田独歩(2013)『牛肉と馬鈴薯・酒中日記』新潮文庫.)
このマインドフルネス実践のときに目指すものが、
その境地に一番近いんじゃないかと思ったんです。
その実践がどんな感じのやつなのかを
説明するために、こちらの文献から
少し引用したいと思います↓
マインドフルネスの実践法の中には、
「感覚・運動傾注法」というのがあります。
「感覚・運動傾注法」は全部で7つです。
「食べる洞察法」
「歩く時の自己洞察法(歩行瞑想)」
「運動をする時の自己洞察法」
「静かに過ごす時の自己洞察法」
「入浴時の自己洞察法」
「作業をする時の自己洞察法」
「家族と話す時の自己洞察法」
(引用元:大田健次郎『うつ・不安障害を治すマインドフルネス ひとりでできる「自己洞察瞑想療法」』佼成出版社.)
このうち、
「静かに過ごす時の自己洞察法」が、
独歩の願望だった「不思議なる宇宙を驚く」ことと
関わりがあるんじゃないかと思いますた。
静かに過ごす時の自己洞察法
音楽を聴く、庭をながめる、
休息する時などは、
やはり、感覚に意識を向けます。
聞いている、見ている、息をしていることを感じます。
何か考えていることに気づいたら、それを観察しましょう。
考えにのみ込まれないようにします。
身体の感覚などに意識を向ければ、
考えは消えていくかもしれません。
消えなくても、観察を続けましょう。
(引用元:大田健次郎『うつ・不安障害を治すマインドフルネス ひとりでできる「自己洞察瞑想療法」』佼成出版社.)
こんなふうにして
内面にポンポコ浮かんでくる考えを意識から切り離して
感覚にひたすら没頭してるっていうのは、
「無念無想の裡に入」って、
「利害の念もなければ越方行末の想もなく、
恩愛の情もなく憎悪の悩みもなく、
失望もなく希望もなく、
ただ空然として眼を開き耳を開いて居る」
のと一緒じゃないんすかね?とミツムジは考えました。
感覚、感情、思考、欲求とかの心の動きを観察して、
自分の心が
「意識されたものを包んで映すもの」
だと実感できると、
「習慣の眼が作る処のまぼろし」
に捉われてない本来の自分が見えてきます。
・・・多分、
習慣はもう、既に当たり前のものとして
人の心に生きてしまってるんだと思うのですが、
知ることのできない「宇宙」
その不思議に驚異と畏怖の念をもって向かい合うためには、
この本来の自分に出会うことが大事だと思うんです。
マルセル・プルーストっていう小説家が、
価値の階梯のなかで、
知性が占めるのは第二の地位にすぎないとしても、
第一位を占めるのは本能だと宣言できるのも、
ただ知性だけなのである。
(引用元:保苅瑞穂編『プルースト評論選Ⅰ文学篇』ちくま文庫.)
と言ってるのですが、これといっしょに
知性が、現実の再創造という、
芸術のすべてに相当する行為において、
まったく無力だとの思いを深めている
(引用元:保苅瑞穂編『プルースト評論選Ⅰ文学篇』ちくま文庫.)
なんていう主張もしてます。
マインドフルネスは
それをする人の創造性の向上に結び付く
と言われているんですが、
それは人が本来持ってるはずの
感覚的な「本能」に眼を向ける事が
動物としての人間のあり方を認めること
ひいては宇宙のあり方を認めることになるからで、
そのやって
「宇宙と一体になる力が創造性を生み出すんかなあ」
なんていう結論を思い浮かべました。
(※本能のままに生きろという意味ではないのでご理解よろしくお願いしますm(_ _)m)
この創造性が
「不思議なる宇宙」を見通す力をつくって
人の心に驚異の念なるものを放り込んだりするんじゃないかって
ミツムジは思ったりします。
「空知川の岸辺」最後の場面で
入植地に辿り着いた主人公は
北海道の原始林をながめながら思います
社会が何処にある、
人間の誇り顔に伝唱する「歴史」が何処にある。
この場所に於て、この時に於て、
人はただ「生存」その者の、
自然の一呼吸の中に托されておることを
感ずるばかりである。
(引用元:国木田独歩(2013)『牛肉と馬鈴薯・酒中日記』新潮文庫.)
この認識が自然と分断された「現代」に生きる人にとって
どれだけ大切なのか
独歩からのメッセージを受け取った気になって思ったミツムジでした。
記事の中で扱った
マインドフルネスですが、
これやったら
精神的にすごく安定した(私の場合)ので、
興味がある方のために
紹介しておきますね
↑こちらの本では
マインドフルネスの実践的な方法を
一から丁寧に解説して下さっています。
マインドフルネスは、一言でいうと
「お手軽にできる瞑想」です!
ということで、
国木田独歩『牛肉と馬鈴薯・酒中日記』の書評はこれでおしまいとなります。
最後までお読み頂き、ほんとうにありがとうございましたm(__)m